黄ニラは手のかかる子
岡山市北部の牟佐(むさ)・玉柏(たまがし)地区は、県の生産量の約9割を担う黄ニラの名産地だ。近くを流れる旭川の恵みにより、土壌は肥沃(ひよく)で水はけがよい。牟佐地区のアーチファームは、約3.5ヘクタールの圃場で黄ニラとパクチーを周年栽培する。
「おはようございます!わざわざどうも!」。颯爽(さっそう)と軽トラックから降り立ったのは、黄色のツナギに長靴姿の植田さん。名刺入れや携帯電話カバー、眼鏡までも黄色だ。「下着もです」と、聞いてもないのに教えてくれた。
黄ニラの栽培方法は、植田さんのようにユニークだ。
まずは緑色の葉ニラを栽培し、2年かけて根に養分を蓄える。その後一度葉を刈り取り、株をビニールシートで覆って遮光する。蓄えた養分を使うので、光合成なしでも新しい葉が再生する。いわゆる「軟白栽培」だ。
この葉を黄ニラと呼ぶわけで、葉ニラも黄ニラも元々は同じ品種なのだ。
収穫後すぐに数時間だけ天日干しをすることで、黄色を鮮やかにする。最近は天日干しを省く農家もいるそうだが、植田さんは食感も向上させる大切な過程と考え欠かさない。質の良い物だけを選別し、出荷する。
岡山での黄ニラ栽培は明治5年頃から始まった。雨風に当たると傷みやすく、寒さに弱い黄ニラは、日照時間が長く降水量の少ない岡山に適した作物といえる。
葉はビロードのように滑らかで柔らかい。生食できるほどクセがなく、上品な香りとシャクシャクとした歯触りが小気味よい。痴呆症を防ぐとされる「アホエン」という成分など、葉ニラにはない栄養素を含んでいる。
「すごく手のかかる子」と植田さんがいうように、デリケートな作物なので機械が難しい。希少な食材として、首都圏の料亭などで高級食材として扱われる。
岡山駅近くの繁華街にある岡山料理専門店では、植田さんの黄ニラを使った料理を常時10品以上提供する。卵とじや炒飯、寿司などがあり、人気メニューは薬味と一緒に生のまま食べる「黄ニラの刺身」だ。
店主と常連客は、「10年前まではここまで黄ニラは注目されていなかった」と証言する。「テレビで『岡山の寿司店では、いつものように黄ニラの注文が相次ぎ……』なんてやっているのを見ると、当時は『やらせじゃないか』と思ったもの」。
全身で黄ニラをPRする植田さんがメディアに取り上げられるようになってから、黄ニラに注がれる視線が変わったという。「地域の宝に気付かせてくれた、大使に感謝しなきゃいけないな」。
黄ニラの株を上げた植田さんの軌跡を追ってみよう。
人生を変えた一杯のみそ汁
兵庫県生まれの植田さんは、高校卒業後に大手鉄鋼会社に就職。会社員時代に、現在の妻の美穂(みほ)さんに出会い一目惚れをする。美穂さんの実家は牟佐地区で黄ニラを生産する専業農家だった。
緊張しながら挨拶に行く道すがら、太陽の下で輝く黄ニラがある光景に目と心を奪われた。
美穂さんの実家で、義母が手作りの黄ニラのみそ汁を薦めてくれた。「初めて口にする上品な味と美しさに衝撃を受けました」。食生活が乱れていて家族で食卓を囲むことも少なかったという、若い植田さんの五臓六腑に沁み渡った。
それまでは興味もなかった農業だったが跡取りがいないと聞き、黄ニラよりも先に惚れ込んだ美穂さんの故郷の風景を守ると決めた。1999年1月に婿養子として移住、同時に就農した。「あのみそ汁がなければ就農していなかったかも」と振り返る。
「おれ、黄ニラになろう」
しかし、農作業の辛さに「農業をなめていた」と思い知る。簡単そうに見えていた栽培も、季節ごとに大きく結果が変わるし、どんな日でもマメに見守らなければならない。始めは地域の農家と距離を感じ、人間関係に悩んで身体を壊した時期もあった。
見よう見まねで必死に技術を習得しながら、「まずは地域の人に覚えてもらおう」と赤いツナギをトレードマークにした。、2年が経った頃、「地元のおばあちゃんが『あんたあそこの赤い人やな』と言ってくれた。色で覚えてくれたんですね」。同じ頃、消防団の知人が「お前さんはツナギが好きやから」と、自宅で眠っていたという2着の黄色いツナギをくれた。袖を通してビビっときた。「おれ、黄ニラになろう」。
農作業中もそれ以外の時間も、黄ニラが全国に浸透するまで、毎日着ることに決めた。「当時は農業をすることが苦しくて、夢が見つからなかった。そんな自分が倒れないように、と鼓舞するための道具でもあった気がします」。
自分で自分を大使に任命
当時、牟佐地区の黄ニラの売り上げは右肩下がりで、生産量の約9割が県外に流れていた。
「農家さん達は日本一と自負しているんだけど、岡山の人でもここが産地ということや黄ニラ自体を知らない人がとても多くて。それがショックでね」。
植田さんは現状に疑問を覚えた。「地元の人に食べてもらい、応援してもらって、初めて『ブランド野菜』として胸を張って売れるんじゃないか思ったんです」。2008年、自分で自分を「黄ニラ大使」に任命。ツナギをトレードマークに、黄ニラの広報活動を開始する。
まずは郷土料理をアレンジしたオリジナルメニュー「黄ニラのばら寿司」を引っ提げ、メニューに組み込むように繁華街の飲食店に頼み込んだ。アポなしで訪れては叱られながらも、植田さんの熱意に心を動かされ契約を決める店が出始めた。
やがて販路は飲食店やスーパー、加工業者などに広がり、植田さん自身も注目されるようになる。明るく黄ニラ愛を唱え続ける植田さんは、地元のイベントやメディアに引っ張りだこに。岡山駅を歩くと「黄ニラの人」「大使」と、知らない人からも声を掛けられるようになった。人気グループTOKIOが農作業に挑戦するテレビ番組『ザ!鉄腕!DASH!!』にも出演、一躍地元の有名人になる。
黄ニラ自体の認知度もじわじわと高まり、「県全体の消費量の10%に満たなかった県内の消費は、10年で40%ほどになった」(植田さん)という。「人とのつながりができて、消費も増やすという一定の成果が出せて、農業が楽しくなったのはそこから」と振り返る。
2018年7月、株式会社化し従業員を迎えた。わずか5日後、西日本豪雨により旭川が氾濫。畑の大半が浸水したことにより土壌が硬化してしまい、半年間は満足に出荷できなかった。「忘れられない、厳しいスタートになってしまった」。復旧作業のボランティア来てくれた販売先の店主など、地元の人に支えられた。
最近、離農する高齢農家から託された畑地を買い取り、大規模のハウスを建てた。「機械化に挑戦して増産体制をつくり、高齢化する地域の期待に応えられるようにしたい」と意気込む。目標を「黄色いメンバーを100人増やすこと」とし、雇用創出にも本腰を入れていく。
屋号の「アーチファーム」のロゴは、農園までの道のりにある旭川に懸かる大原橋をモチーフにしている。9連のうちひとつだけが鉄製という、珍しいコンクリート製のアーチ橋だ。昭和初期に完全な鉄橋の予定で着工したが、太平洋戦争末期に鉄不足となり、計画を変更してコンクリートで作ることになったという。
植田さんは初めて妻の実家を訪れた日、この橋に三度目の一目惚れをした。鉄の塊の軍需品を運ぶために生まれたが、戦後は地元の人の生活を支えた。そんな大原橋に重ね合わせ、「今度は自分が、地元の架け橋のような存在になりたい」。人生を決めたあの日と同じ光景を見つめながら、何度も思いを新たにしている。
【コラム①】<就農希望者にアドバイス>
「何を作りたいか、届けたいかを明確にするために作柄をリサーチするのは、絶対に必要。インターネットで調べてもいいし、気になる農家さんに飛び込んで肌で感じるのも大切だと思う」。
植田さんは黄ニラのほかに、東京の仲卸業者の薦めで同じ中国野菜の香菜(シャンツァイ:パクチー)を栽培。実はパクチー嫌いだったが、自分でも食べられる自家採取したクセの少ない柔らかい品種を「岡山マイルドパクチー(岡パク)」として発売したところヒット、今では黄ニラとの二枚看板を務める。
【コラム②】<2020年を振り返って>
タクシー会社の岡山交通が、瀬戸内のPRの一環で車体やシートに黄ニラをデザインしたタクシーを製作。アーチファームも協力し、11月下旬に完成、12月に運行を開始した。車内では黄ニラのパンフレットや先着順でステッカーを配布するという。地元観光産業との連携に「ずっと夢だったことがかなった」と相好を崩した。