最初は反対していた父がくれたもの
加藤さんは1951年生まれ。牧場で飼っている牛の数は330頭で、4割をジャージー牛が占める。ジャージー牛では有数の飼育規模だ。100ヘクタール弱の農地で牧草やデントコーンなどを栽培し、飼料の自給にも取り組んでいる。
実家は帯広市の中心部に近い場所で野菜を栽培していた。だが加藤さんは野菜農家を継ぐのではなく、酪農家になることを志した。
きっかけは中学生のとき、友人の家で牛乳を飲ませてもらったことにある。そのころ学校給食で出ていた「牛乳」は脱脂粉乳を水で溶いたもので、おいしいと言えるものではなかった。これに対し、友人の家は牧場を営んでいて、飲ませてくれた牛乳はその日の朝に搾ったものだった。
「こんなにおいしいものがあるのか」。加藤さんは驚き、「これが毎日飲めるなら、酪農も面白そうだ」と思ったという。当時の日本はまだ貧しく、心が動くほどおいしいものを食べる機会はめったになかった。そのとき飲んだ牛乳の味は、加藤さんの進路を左右するほどのインパクトがあった。
父親は「酪農は大変だぞ」と言って反対した。野菜農家を継いでほしいとの思いもあった。だが加藤さんは「どうしてもやりたい」と訴え、地元の農業高校の畜産科に進んだ。就農前に経営の現場を見てみたいと思い、卒業後は北海道とカナダの牧場で約6年間研修した。
日本に帰るとき、サプライズが待っていた。加藤さんがすぐ牧場経営を始められるようにするため、父親が18ヘクタールの農地を買ってくれていたのだ。もともとビートや豆を栽培していた畑だが、加藤さんが帰国するまでの間、近くの牧場主に管理を頼み、牧草を植えておいてくれた。
帰国するとすぐ、加藤さんは牧場の経営に乗り出した。飼養頭数は、カナダと日本で買ったホルスタインを合わせて12頭。公的な融資を受けて牛舎を建て、搾乳機などの機械も導入した。1975年のことだ。加藤さんは「父親のおかげでスムーズに始めることができた」と当時をふり返って感謝する。
生乳の廃棄で始めた経営転換
父親が予想した通り、酪農経営は簡単なものではなかった。借金はなかなか減らず、利益を出すのにも苦労した。それでも規模の拡大を通して経営を軌道に乗せることを目指し、頭数を徐々に増やしていった。
そうして7~8年が過ぎたころ、思わぬ形で経営を取り巻く環境が悪化した。需要と供給のバランスが崩れ、北海道で牛乳が余り始めたのだ。そして生産調整が始まった。余った生乳には農協の指導で食紅を混ぜ、赤くした。出荷に回さず、廃棄する生乳であることを明確にするためだ。
「無念だった。ものすごい憤りを感じた」。加藤さんはそのときの思いをそう語る。農協の販売の仕組みがいかに大切かを、当時もいまも感じている。それでも大変な思いをして生産した生乳を廃棄することに、やりきれなさを感じずにはいられなかった。そのくやしい気持ちはいまも残る。
「こんなことをしていてはダメだ」。そう感じた加藤さんは仲間の農家を誘い、1988年からジャージー牛を飼い始めた。ジャージー牛はホルスタインと比べて乳量は少ないが、乳脂肪分や乳タンパクなどの成分の含有量が多い。生産調整を受け、量より質を追求してみたいと思ったのだ。
加藤さんはまず8頭から飼い始めた。牛乳を搾ってみると予想していたより量が少なく、先行きに不安がよぎった。