東京理科大卒の新規就農者、ヤギのチーズを選んだ理詰めの戦略

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東京理科大卒の新規就農者、ヤギのチーズを選んだ理詰めの戦略

連載企画:農業経営のヒント

東京理科大卒の新規就農者、ヤギのチーズを選んだ理詰めの戦略
最終更新日:2020年07月22日

就農する際に何をどこで作るかを決めるのは、その後の農業経営にとって大きな意味を持つ。東京都あきる野市で2020年1月に就農した堀周(ほり・いたる)さんが選んだのはヤギのチーズだ。自らヤギを育てて乳を搾り、チーズを作る。珍しい品目に着目した背景には、理詰めで考えた戦略と理想とするライフスタイルの確かなイメージがある。

新規就農で「チーズ農家」を選んだ理由とは

JR東日本の五日市線の終着駅である武蔵五日市駅から車で西に向かって約20分。市街地を抜け、山あいの道のS字カーブを何度も曲がりながら上っていくと、「行き止まり」と書いた看板の手前に堀さんの自宅が現れる。
人里離れた場所にある一軒家をテーマにした人気テレビ番組で取り上げるのにぴったりの生活環境だ。近くに民家はなく、道を挟んだ両側は急斜面の雑木林。細い沢が心地いい音を立てながら脇を流れる。自宅は空き家になっていた古民家で、1月に親子5人で移り住んだ。携帯の電波は届かない。
そして自宅の横の敷地には、ヤギの小屋が3つ。メス6頭とオス1頭を飼っている。ヤギの小屋から自宅を挟んで反対側にあるのはチーズ工房。もともとあった小屋の床や天井を張り替え、チーズを作る環境を整えた。
東京理科大で物理を学んだ後、いったん建材メーカーに就職した。大学時代から「自分で何かを作り、値段を決め、売る仕事をしたい。それは農業かもしれない」と考えていた。だが「せっかく親に大学を卒業させてもらったのに、いきなり農業というわけにはいかない」と思い、会社員になった。

自宅の前の通りの脇を流れる沢

就職に際し、「丸3年はここで頑張ってみよう」と心に決めた。転職を前提にするのではなく、仕事を3年間一生懸命やってみて、それでも農業への思いが消えなかったら就農しよう。そう考えたのだ。
結論から言えば、当初考えていた通り、3年間働いて会社を辞めた。堀さんは会社員時代について「お客さんとの接し方など、社会人としての基礎を学べたので有意義だった」とふり返る。だが、入社1年目にNHKのある番組を見たことをきっかけに、気持ちは徐々に就農へと傾いていった。
それは自分で牛を飼い、チーズを作る農家を紹介した番組だった。堀さんはそのとき、「自分がやりたかったのはこれだとふに落ちた」という。チーズは作り方次第で自分の個性をはっきりと出すことができる。材料を仕入れず、自分で牛を飼うので土地に根ざした仕事にもなる。そう感じた堀さんは、家畜を飼ってチーズを作ることが就農の目標になっていった。
会社員をしながら、酪農やチーズ作りについて調べる生活が始まった。堀さんの中で「チーズ農家」というライフスタイルへの憧れが膨らんだ。そして3年たったとき、気持ちが揺らいでいないことを確認し、会社を辞めて妻の麻衣(あい)さんと北海道に向かった。研修を受けるためだった。

自宅の横の小屋を改築したチーズ工房

牛ではなくてヤギを選んだわけ

向かった先は北海道の中央部、上川郡新得町にある共働学舎新得農場。チーズ作りの研修で有名なこの農場で、堀さんはその奥深さのとりこになる。乳酸菌や酵素の働きで牛乳から固形分を取り出す方法は科学的に説明できるが、求める味や香りを実現するうえで頼りになるのは人間の感性。「科学的な根拠と繊細な感覚が必要になる」。物理と同じように好奇心を刺激した。
研修は2年間。効率的に農業をやるのが目的だったら、土地の広い北海道でそのまま就農したかもしれない。インターネットで売れば、東京など遠い消費地の人を顧客にすることもできる。だが、堀さんは別の道を選んだ。
理由は二つある。一つは、自分の作ったチーズを買ってくれる消費者と身近につながっていたいと考えたこと。もう一つは、できるだけ家畜の飼育とチーズの生産に時間を割きたいと思ったからだ。そのためには、消費者が気軽にチーズを買いに来てくれるような場所に農場を開く必要があった。「人口の多いところでやるのが絶対条件だった」のだ。
このことが牛ではなく、ヤギを飼うことにもつながった。地域に根ざした農業を理想に掲げる堀さんにとって、牧草を輸入に頼らず自分で作るのは前提。だが消費地の近くで、牛を飼うのに十分な広い牧草地を確保するのは難しい。その点、ヤギならずっと狭い面積ですむ。牛と違ってヤギは傾斜地で飼うことができるので、場所の選択肢が広がるという利点もあった。

この斜面に牧草を植える予定

次に向かった先は東京。八王子市にある磯沼ミルクファームという牧場で、再び2年間の研修に入った。牛のミルクで作るヨーグルトで有名な牧場だが、堀さんには研修とは別の目的があった。牧場の一角を借りて実際にヤギを育てながら、都内で就農するための準備をすることだ。
牧場主がこのプランに賛成してくれたことを受け、研修を始めてから半年後の2018年11月にメスのヤギを購入してきて飼い始めた。翌年の3月にはこのメスが双子のメスのヤギを産んだ。このとき親ヤギの乳を搾ってチーズに加工し、牧場に来る人に試食してもらい、評価を聞いてみたりした。
ここで働いたことで、堀さんは「都市部のお客さんが何に興味を持っていて、彼らとどう接したらいいのかがわかった」という。とくに印象深かったのが「牛がいるだけで喜んでくれる」ことだ。農家にとっては見慣れた家畜でも、消費者の目には新鮮に映る。それを知ったことで、消費地から遠くない場所に牧場を開くという計画は間違っていないと思うようになった。
就農したあきる野市は堀さんの出身地。北海道から戻ってきたときは「やるなら関東で」というくらいの気持ちだったが、「そういえば地元には自然が多い」と考え、探してみると格好の場所が見つかった。家族5人で暮らすのに十分な広さの空き家があって、しかも同じ地主が家の後ろの約1ヘクタールの傾斜地を所有していた。そこに牧草を植えることにした。
こうして念願かない、堀さんはヤギのチーズを作る営農生活をスタートさせた。最初の母ヤギとその子供のうちの1頭が5月にそれぞれ双子を産み、すでに全部で7頭になった。そのうち6頭がメス。2年後にはメスが15頭程度の体制にし、チーズの生産量を安定させることを目指している。

右側が最初に購入したメス。左はその子供

「幸せな暮らし」を持続可能なものに

堀さんのこれまでの歩みを聞いて感じたのは、常に論理的に考えて打つ手を決めてきたという点だ。取材では「理にかなっているかどうか」を戦略を立てる際の基準にしていると強調していた。併せて印象的なのは、大学時代に漠然と抱いた農業への憧れを就職後も保ち続けながら、「ヤギを飼ってチーズを作る」という目標へと徐々に照準を合わせ、着々と準備を進める実行力だ。淡々とした語り口だが、相当な意志力がなければここにはたどりつけないだろう。
ではその原動力は何か。試しにヤギのチーズを食べさせてもらったら、フレッシュな感じがして何ともおいしかった。堀さんは「ちょっと水を絞りすぎちゃったので、口の中がモサモサするかもしれません」と話したが、商品として十分に通用する品質だと思った。試食したのは出来たてのチーズで、その後、時間をかけて熟成させればコクが格段に増すという。

出来たてのチーズ。とてもおいしかった

そこで、誰にも負けない高品質のチーズを作るのが目標かとたずねてみた。堀さんの雰囲気に、職人気質のようなものを感じたからだ。すると「おいしいチーズを作るのは当然ですが」と話した後、次のように語った。
「有り余るほど稼ぎたいとは思っていません。自分の農場で心地よく汗を流して働いて、お金を生み出して家族が幸せになってほしい。ヤギはパートナーなので酷使しようとは思っていません。地域とも仲良くしたい」
就農の経緯について話を聞いていたとき、堀さんは前述のNHKの番組について触れ、「ライフスタイルに魅力を感じた」と話していた。味のいいチーズを作ることはそのための戦略の一つであり、すべては「幸せな暮らし」を持続可能なものにするための一環なのだ。
取材の最後にそんなことを考えていたら、一台の車が坂道を上がってきた。磯沼ミルクファームで研修していたとき、堀さんのヤギのファンになった子供の頼みで牧場にやってきた家族連れだった。堀さんの営農はまだ始まったばかりだが、その一歩は確かなものだと感じながら取材を終えた。

家族の幸せが営農の目的

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