今、中山間地域で耕作放棄地が増えている理由
農地分類を表す言葉に、「平地農業地域」、「中間農業地域」、そして「山間農業地域」があります。耳慣れない言葉かもしれませんが、後者2地域を合わせた「中山間農業地域」または「中山間地域」という呼称の方はなじみがあるかもしれません。中山間地域は山あいや谷間など自然条件が悪い地域であるため、平地に比べ耕作放棄地の割合が高くなっています。筆者の営農する地域は、平地的な部分と山間部に見られる棚田の部分の両方が存在し、棚田など山に近い農地には、荒廃し放棄されたところも見られます。
最初に農地が開発された頃、すなわち農耕の始まりの頃は、人々が手作業によって農地を整備し、生活の糧を生産する場所に変えてきました。日本では縄文時代末期に稲作が伝わったと言われていますが、この頃に始まった耕作の場所こそ、私たちの農地の始まりです。
水稲作を行うためには、谷水や河川の流れを水路に引き込むかんがい設備が必要になります。また、水深を一定に保ち、すみずみまで用水を行き渡らせ、生育を均質に保つためには、農地を水平に広げる技術も必要になります。もともとが湿地帯や湖沼の近くの平坦(へいたん)地であればこのような農地の開発は比較的簡単であると言えます。平野部に水田が広がっている景色を思い浮かべてみてください。河川の両側に広がる水田地帯は一面に平坦で一枚一枚の農地の広さも大きく、均質な情景が広がっています。こうした平地農業地域を中心に、水利の優位な場所から農地として利用されてきたと言えます。
しかし中山間の農地となるとどうでしょうか? 山と谷をつなぐ山裾の土地には、段々畑や棚田と呼ばれる農地が広がっています。これは、平地だけでは収まりきらなくなった人々の生活を支えるために、山間の土地を開墾して築かれた農地です。山裾の限りある空間をなるべく水田や畑として利用するために、斜面を削って水平な農地を連ね、時には農地面積よりも広い斜面をのり面に持つような急峻(きゅうしゅん)な棚田も築かれてきました。このような中山間地の農地は、作業効率が悪く、省力化や機械化に不向きな面があるため、農業の担い手から敬遠されがちです。また、このような農地が多くを占めるような山間部の農村では、農地自体が少ないため、規模拡大を目指す担い手が育たないという問題もあります。こうした状況から、中山間地域では新たな担い手が見つからず、農業者の離農による耕作放棄地が増える結果につながっています。
筆者が就農当時に借りた棚田の一角も、それまでに30年程度放棄された耕作放棄地でした。イバラやシノブ竹が生い茂り、雑木も生えてきていました。そのような状態になると、開墾作業も非常に大変な重労働となります。
各地の棚田でも同じような耕作放棄地問題があります。中山間地域に特有の耕作放棄地問題はどのような経緯で広がってきたのでしょうか?
山村の棚田と“結い”作業
山間部に集落が作られるとともに開墾が始まったこれらの農地では、1950年ごろまで主に牛馬を労力として利用しながら耕作が続けられてきました。集落の人々が総出で田植えや稲刈りをはじめとした農地の管理をするなど、人々の相互扶助のための共同作業の形は「結い(ゆい)」と呼ばれ、各地で集落単位の生活の基盤を支えてきました。便利な機械に頼った農作業を行えるようになった現代と違って、人々は互いの労力を交換し、互助的に農業と生活を成り立たせる必要があったため、「結い」は集団生活の根幹をなす、なくてはならない仕組みでした。当時主流であった茅(かや)ぶき屋根のふき替えによって建物の維持をしたり、生活用水も兼ねた水路の維持管理、害獣の侵入を防ぐための「鹿垣(ししがき)」を整備・管理することにおいても集落の構成員相互が協力して労力を出し合っていました。田植えや稲刈りなどの農業経営の目的に限らず、生活全般において人々が協力することで集落社会が維持されてきたということがわかります。
農業の機械化と兼業農家の増加
かつての相互扶助の仕組みは、現在、農業経営の場面での省力的経営を可能とした農業の近代化に取って代わられてしまったと言えます。
例えば5人で1日ずつ互いの田植えを行い、5日間かけて終わらせていた「結い」による田植え作業は、田植え機の登場によって、オペレーターと助手の2人もいれば1日で終わらせることができます。この場合の、田植え仕事のなくなった3人や、田植えに割かなくてもよくなった4日間の時間が、農業以外の労働へと向かいました。田植え機のみならず、牛馬に代わる耕運機やトラクター、稲刈りから脱穀を同時に可能とするコンバインの登場で、農業に従事すべき労力は一気に少なくなりました。さらには、それまで手作業による大変な労力を割いてきた田んぼの除草作業も、除草剤の登場によってその必要がなくなりました。
こうして農村の人々が得た余剰時間、余剰労力が農業外の労働に充てられるようになります。産業としての農業が必要とする労働力が少なくなったため、人々は兼業農家になったり、農業をやめてサラリーマン化したりという選択を取りました。
つまり、農業は集落全体の協力が不要になり、各農家がそれぞれの農業経営を担う「家族経営」という現代の農業の形へと変化していったのです。
その一方で平地を中心に、圃場(ほじょう)整備事業の進展や大型機械の導入によって、農業の大規模化が進みました。生産性の向上が達成された農業集落においては、各農業者が農業機械を所有するよりも、集落全体で農地を管理し、生産したほうが効率的であるという判断のもと、集落営農組織を立ち上げる例も増えました。地域の農地の維持管理を行うことが大きな目的である集落営農は、かつての結いの側面を残した、現代的な営農形態ということもできます。
農業の変容と農業者の減少
かつて、牛馬が働くためには「飼葉(かいば)」と呼ばれる餌が必要になりました。この餌となるあぜ草を集めるのが農家の女性たちの朝一番の仕事だったと、筆者の経営する農地の地主である高齢女性に聞いたことがあります。田畑ののり面に生える草を集め、それを牛に与え、牛が田畑を耕し、その家畜ふんは肥料として農地に還元されていました。
これに対して農業の機械化が進んだ戦後以降、耕運機やトラクターの動力には軽油やガソリンを使うエンジンが用いられていますので、こうした燃料を購入しなければならなくなりました。農業または農外の収入で得た貨幣を燃料に交換し、機械化された農作業にあたるという、市場経済に依拠した形式が主流になったのもこの頃です。
こうした農業の近代化は、1960年代から始まった農地の基盤整備事業とともに、農業者の規模拡大を進めることにもつながりました。農地や農道、水路の改善によって生産性の向上を図るため、国庫補助事業として土地改良事業が進められました。それまで牛や馬が通れれば足りた農業用道路は、トラクターや軽トラックが乗り入れできる道になりました。
特に平地農業地域では圃場の大区画化が顕著となり、大型機械の導入が後押しされ、法人組織などの組織経営体による農業経営が広がりました。2020年の農林業センサスによると、経営耕地面積が10ヘクタール以上の経営体は55.3%と過半数にものぼっています。農業従事者の減少に対し、1人当たりの経営耕地面積を広げるために農地集積を進める動きが加速しています。農業の機械化が進んだ1960年に1175万人いた基幹的農業従事者は、2000年には240万人、2020年には136万人と激減しており、農業者一人がカバーすべき農地面積は年々増える傾向にあります。
基盤整備事業と耕作放棄地
中山間地域の農地においても、基盤整備事業の導入によって、生産性の向上が達成されています。しかし、区画の再整備を伴う圃場整備などの「面整備」事業が一般的な平地農業地域に対して、傾斜地の多い中山間地域では少し事情が変わります。中山間地域では面整備を行わず、農道と水路の整備のみを行う、いわゆる「線整備」のみが実施される地区も多くなります。ただ、線整備だけでも農地の利用効率は大幅に向上しますので、自給的農業者であっても営農を継続しやすくなり、また、土地持ち非農家であってもスムーズに借り手に営農を託せる環境ができたと言えます。
筆者の営農する地域では、比較的最近基盤整備事業が行われました。高低差の少ない工区では圃場の合筆や区画拡大が行われ、農道、水路が新設されました。また、山際に広がる棚田の工区では、水路と農道のみを整備する線整備事業が行われています。棚田の工区では、それまで農機具やトラックが入ることすらできなかった農地にアクセスできるようになりました。これによって、筆者ら新規就農者が耕作放棄地を開墾したり、借り受けたりすることができるようになり、徐々に耕作放棄地がなくなってきました。
その一方で、基盤整備事業の導入がかなわなかった地域や農地も多く存在します。事業の導入には受益農家の集まりによって構成される「土地改良区」という組織を立ち上げて事業を進める必要がありますが、集落内で事業導入の合意形成ができなかった地域や、飛び地など地形的な問題から導入できなかった農地もあります。そもそも、小さな谷水を頼りに開かれた小規模な谷地田(やちだ)や棚田は、獣害リスクが高かったり、作業効率の改善が難しかったりするため、受益地候補に手を挙げる農業者が少なくなりがちです。
中山間地域における耕作放棄地は、その立地環境ゆえに整備事業の着手を望まなかったことで荒廃地になる将来が決定づけられてしまった面があります。つまり、耕作放棄地の増加は、基盤整備事業の未着手農地で起きているとも言えます。裏を返せば、基盤整備事業の導入で土地改良に着手した地域では、耕作放棄地になるかもしれなかった地域の将来を変えることができたと言えるでしょう。
次の記事では、筆者の農園のある京都市大原地区で実施された基盤整備事業を起点に、地域社会が変貌した経緯を紹介したいと思います。