窒素肥料6割減でも生産性維持
「今後10年から15年で、この技術が異なる地域に多様な形で活用されることを望んでいます。そして、世界中で窒素が環境中へ漏出するのを防ぎたい。それが私たちの願いであり、希望です」
言葉に力を込めてこう語るのは、国際農林水産業研究センター(以下、国際農研)の主任研究員であるグントゥール・V・スバラオさん(冒頭写真)だ。窒素の利用率が高く、施肥量を減らしても高い生産性を示す小麦を開発した。
2022年4月中旬には、カナダで「A New Era(新しい時代)」をテーマに開催されたTED 2022(※)に登壇。講演後はスタンディングオベーションが起きた。5月1日には、学術誌「米国科学アカデミー紀要(PNAS)」の2021年の最優秀論文賞(Cozzarelli Prize)を授与されている。
※ TEDは世界のさまざまな分野の専門家や著名人による講演会を主催し配信する米国の非営利団体。TED 2022ではTwitter社に買収を提案した直後のイーロン・マスク氏が登場して話題を呼んだ。
スバラオさんが開発したのは、BNI(生物的硝化抑制)強化小麦。現代の農業は、大量の窒素肥料の施用を前提としている。その実、施された窒素肥料の5~7割は作物に利用されず、土壌微生物によりアンモニア態から硝酸態に変化する「硝化」をへて、硝酸態窒素になる。そして、地下水を汚染したり、強力な温室効果ガスである亜酸化窒素になったりする。
BNIとは、植物が根から物質を分泌し、硝化を抑制する機能をいう。BNIを強化した作物を栽培すれば、窒素肥料が従来のように急速には硝化せず、植物が利用できる形で土壌に長くとどまることになる。
スバラオさんは、熱帯の牧草ブラキアリアや雑穀のソルガムの根から、このBNIの機能を見いだしてきた。そして、野生の小麦の近縁種であるオオハマニンニクに高いBNIの能力を見つけ、オオハマニンニクを小麦と交配させることで、最終的に収量の高いBNI強化小麦を生み出したのだ。このBNI強化小麦は、研究において、窒素肥料を6割減らしても通常の品種と同じ生産性を保てた。
日本向け小麦品種の育種始まる
茨城県つくば市にある国際農研の圃場(ほじょう)に植えられているBNI強化小麦は、インドでの栽培に適した品種だ。インドは世界2位の小麦生産国で、国際農研は科学技術振興機構(JST)と国際協力機構(JICA)の後押しを受けて、北部にあるヒンドゥスタン平原で栽培をしつつ研究している。
肥料を節約でき、環境負荷を抑えられる一方、「製パン特性は親となった品種とほとんど変わらない」とスバラオさんと共に研究を担当した国際農研の吉橋忠(よしはし・ただし)さんは言う。
「インドでの小麦の用途として多いナンやチャパティ(インド北部の主食で無発酵のパン)にも問題なく使えます」(吉橋さん)
また、スバラオさんは交配を通して、BNI強化の形質をさまざまな小麦に持たせることができると説明する。
「BNI強化の機能は、世界中の小麦の品種に導入することができます。この技術は、窒素肥料の消費と、農地からの温室効果ガス発生を抑制する点で、大きなインパクトを世界に与えるはずです」
BNI強化小麦は、遺伝子組み換え技術を用いず、交配によって生み出されている。それだけに、栽培できる国や地域が広がるはずだ。
実際に、北米や日本で栽培される品種にBNI機能を持たせる研究が始まっている。日本向けの品種は、農研機構北海道農業研究センターの協力を得て交配を始めたところ。「日本でも5年程度のスパンで、ある程度の成果が出るのではないか」と吉橋さんは期待している。
なお、日本では品種の登録に通常2、3年かかる。そのため育種が順調でも、品種を登録して世に送り出すには時間がかかりそうだ。
次なる「緑の革命」で生きる技術に
BNI強化小麦に日本を含め各国が熱い視線を送るのは、緑の革命以来のブレイクスルーになり得ると期待されているからだ。緑の革命とは、1960年代ごろから多収穫の品種と化学肥料、農薬などを組み合わせ、世界各地で飛躍的な食糧増産を成し遂げたことをいう。少なくない地域で食糧問題の解決に大きく貢献した半面、緑の革命には環境負荷を増大させたという負の面もある。
窒素肥料に目を向けると、空気から作り出すことができるため、現在では大量に使われ、生態系で処理しきれない量が圃場に投入されがちだ。作物の窒素の利用効率は、向上している地域もあるものの、国連食糧農業機関(FAO)によれば世界平均でみると1980年以降停滞している。環境負荷を抑えつつ、生産性を維持できるBNI強化小麦は突破口の一つになり得る。
「第二の緑の革命のようなものが起きるときに、この技術がその一部になってくれればいい」(吉橋さん)
BNI強化の技術は、農林水産省が2021年5月に策定した「みどりの食料システム戦略」において、温室効果ガスの排出削減に貢献する有望な技術として言及されてもいる。農家にとっては肥料代の節約につながり得るBNI強化小麦の今後の展開に注目したい。