輸出専用に米を栽培する農業法人
長野県伊那市の長谷中尾地区は人口わずか60人ほどの高齢化が深刻な集落。ここに、日本の農業の未来を切り拓くユニークな企業があります。海外輸出向けの米を専門に栽培する株式会社Wakka Agriです。
同社が手掛けるのは、農薬や化学肥料を一切使わない「自然栽培」による米作り。しかし、その米が国内の店頭に並ぶことはほとんどありません。生産量の9割以上が、ニューヨーク、ロンドン、シンガポールなど、世界9つの拠点を介して海外の消費者に直接届けられます。その販売の役割を担うのが、札幌を拠点とする親会社の株式会社Wakka Japanです。
wakkaグループ全体の国産米の年間取り扱い量は約2500トン。Wakka Agriの圃場規模は約9.7ヘクタールで、年間生産量は約24トンほど。グループ全体の1%にも過ぎませんが、この僅かな生産量こそ、グループ全体の理念を体現し、未来を切り拓くための重要な役割を担っているのです。

Wakka Agriがある長野県伊那市長谷中尾
すべての始まりは、香港で感じた「悔しさ」
Wakka Agriの物語は、創業者である出口友洋(でぐち・ともひろ)さんが前職の海外勤務で感じた「悔しさ」から始まります。
サラリーマンとして香港に駐在していた出口さんが国産米を食べたときのこと。その国産米は高温多湿のコンテナで長時間輸送されて酸化し、本来の風味を失ったものでした。「日本米が、こんな形で誤解されている」。この課題意識こそが、事業の原点となりました。
「作る」からではなく「売る」から始める
輸出を手がける企業が「日本で作ったものを、どう売るか」を考える中、出口さんは全く逆の発想をしました。それは「海外の消費者に、最高の状態で届けるにはどうすべきか」という問いから始めることでした。その答えが、米を「生鮮食品」と捉え、玄米のまま冷蔵輸出し、現地の店舗で注文を受けてから精米する画期的な「現地精米」モデルです。
この事業は香港から始まり、シンガポール、台湾、ホノルル、ベトナム、ニューヨーク、ロサンゼルス、2025年にはロンドンにも拠点を設けるなど拡大を続け、近くニュージーランドにも新たな拠点が生まれる予定といいます。
事業が拡大するにつれ、「海外で本当に求められている米を、ゼロから作る」という、より踏み込んだマーケットインの発想に繋がりました。その理想を形にするため、2017年、輸出米専門の農業法人として株式会社Wakka Agriが設立されたのです。

株式会社Wakka Agriの創業者で、Wakkaグループ代表を務める出口さん
文化を届ける「米のセレクトショップ」
Wakkaグループの海外店舗は、アジアでは「三代目 俵屋玄兵衛」、欧米では「the rice factory」のブランドで展開されています。ニューヨークの店舗を覗くと、ガラス張りの向こうで精米機が稼働する様子が見え、棚には100%日本産の米が何種類も並びます。
商品はそれだけではありません。土鍋やしゃもじ、こだわりの調味料といった「米にまつわるもの」が豊富に取り揃えられており、その様相はまさに「米のセレクトショップ」です。
海外では炊飯器を持たない家庭も多く、正しい炊き方を知らない消費者も少なくありません。「最高の米を届けても、美味しく炊いてもらえなければ価値は伝わらない」。その考えから、店頭では知識を持った店員が顧客一人ひとりに炊き方を丁寧に説明します。時には取引先のレストランへ炊飯指導に赴くこともあるといいます。
商品を売って終わりではなく、日本の米文化そのものを届け、最高の食体験をしてもらうこと。これこそが、世界でファンを増やし続ける同社の快進撃の背景にあります。

ニューヨークの「米のセレクトショップ」
Wakka Agriの価値を支える二本の柱
Wakkaグループのグローバルな販売網を支えるのは、それぞれ異なるターゲットを見据えた2本の柱です。
グループが扱う米の約99%は、北海道や新潟県などから生産者やJA(農協)を通じて大量に仕入れています。これらは価格の安さを重視するアジア市場や、飲食店の業務用ニーズに応えるためのものです。一方で、残りの約1%を生産するWakka Agriでは、高付加価値市場に向けた米の生産を担う、グループの理念の象徴的存在と言えます。
科学者の視点で挑む「自然栽培」と戦略的品種
Wakka Agriの米作りを指揮するのも、細谷さんの役目。元々は、明治学院大学文学部で学んでいましたが、「社会がどんなに変わっても、人が食べることはなくならない」と農業の道を志し、茨城大学農学部へ編入。「奇跡のリンゴ」で知られる木村秋則(きむら・あきのり)さんと出会い、自然栽培の世界に衝撃を受けます。
その探求心から岩手大学大学院連合農学研究科へ進み、博士論文「自然栽培水田における窒素循環と収量成立機構」で農学博士号を取得。その後、ベトナムでの派遣研究員時代に、自身のブログでこれまで学んできた自然栽培について発信していたところ、創業者・出口さんの目に留まりました。「研究してきたことを、実践の現場でやりたい」。二人の思いが重なり、細谷さんは2018年にWakka Agriへの参画を決意しました。

現在、株式会社Wakka Agriの取締役社長を務める細谷さん
彼が中山間地で育てる3つの品種は、アジアと欧米の全く異なる市場を見据えて、戦略的に選ばれています。
カミアカリ
海外の玄米食ニーズに応えるため、コシヒカリの約3倍の巨大胚芽を持つ希少品種「カミアカリ」の栽培許可を取得。その栄養価の高さと「白米のように食べやすい」と評価される食味で、海外の顧客から絶大な支持を得ています。これは、良いものであれば価格を気にしない欧米市場をターゲットにした、高付加価値な製品です。
ササシグレ
粘り気が少なく粒立ちが良いため、海外の高級寿司店などからの需要に応える品種。同品種は、従来通り肥料を与えて栽培すると、背が高く育ち倒れやすいといった性質のため国内では作られなくなりました。しかし、同社が手掛ける自然栽培では、肥料を使わない分背が高く育たないので、倒れる心配がありません。その優れた食味を最大限に引き出すことができます。
白毛餅
この地域(上伊那)の在来種のもち米。味が非常に良く、きめ細やかで滑らかな食感が特徴です。地域の食文化を継承すると同時に、自然栽培として付加価値をつけ、日本の伝統に関心のある海外消費者へ届けています。

span>Wakka Agriが栽培するカミアカリと同品種を使った加工品
事業と地域貢献の両立
「集落が存続しなければ、米作りも続けられない」。これは、細谷さんが移住してすぐに直面した現実でした。水路の掃除や獣害柵の補修など、農業インフラは地域住民の共同作業なくして維持できません。この危機感が、事業の焦点を単なる「米作り」から、地域全体の活力を創造する「村づくり」へとシフトさせました。
古民家をリノベーションした交流拠点を軸に、ジビエ料理店やカフェを誘致し、地域に新たな雇用と賑わいを創出。さらに、地域を巻き込んで「棚田まつり」を主催します。子どもが一人もいないこの集落で、15年間眠っていた「子ども神輿」を復活させた際には、集落の人たちが心から喜んだといいます。
これらの活動は、事業基盤を盤石にするだけでなく、集落の方や消費者の深い共感を呼び、強力なブランドを築くための取り組みとなっているのです。

リノベーションした古民家(外観)

リノベーションした古民家(内観)

リノベーションした古民家(内観)
Wakka Agriが示す未来
Wakka Agriが示す未来への道は、決して平坦ではありません。拡大するオーガニック米ニーズに対応するため、地域の慣行栽培農家に栽培協力を仰いでも、その労力と技術の違いから頓挫した経験もあります。
そこで同社が見出したのが、未来の担い手そのものを育てること。農業未経験でも意欲ある若者を研修生として受け入れ、独立後も機械のレンタルや販路確保まで手厚くサポートしています。
細谷さんのビジョンは明確です。むやみな規模拡大ではなく、中山間地の特性を生かした「適正なサイズ」を追求し、農業に観光といった要素を組み合わせた独自の価値を創造する。その根底にあるのは「海外で外貨を稼ぎ、そのお金を地域に投資して雇用を生み出す」という持続可能なモデルであり、目指すのは「かつて日本のどこにでもあった、人々が助け合いながら暮らす農村風景」の再生だといいます。
そして、このモデルは他の地域でも応用できると細谷社長は語ります。
「我々がゼロから築き上げた生産ノウハウと世界中に広がる販売網(販路)というサポートは提供できます。重要なのは、その地域をどうにかしたいという意欲ある人がいるかどうかです」

Wakka Agriが開催する棚田まつり
「誰に、何を届けたいのか」を明確にすること。そして、不利な条件や眠っている資源の中にこそ、磨くべき価値を見出すこと。Wakka Agriの挑戦は、農業が単なる食料生産ではなく、地域社会の未来をデザインする力を持つ産業であることを証明しています。それは、日本の農業と地方が輝くための、確かな希望の光といえるでしょう。
取材協力
株式会社Wakka Agri
株式会社Wakka Japan
株式会社Wakka Japan







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