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「日本の田んぼを守る」パーマネントな酒蔵・仁井田本家【後編】

柏木 智帆

ライター:

連載企画:お米ライターが行く!

「日本の田んぼを守る」パーマネントな酒蔵・仁井田本家【後編】

福島県郡山市の「仁井田本家」は、1967年から自然米(栽培期間中、農薬・肥料不使用)のお酒を製造販売している“自然酒”の先駆者。「創業300年の2011年にすべての日本酒を無農薬のお米で造る」という目標が達成され、2013年からはすべてのお酒が自然米と自然派酒母を使った純米酒です。奇しくも、創業300年目となる2011年には東日本大震災と福島第一原発事故が発生。それまで田んぼに注がれてきた「持続可能(パーマネント)」の視点が、後継者育成や事業継承にも向けられる転機となりました。

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次の代、その次の代へ

さまざまなイベントを打ち出して人が集まる酒蔵となった仁井田本家

1711年創業の仁井田本家は、1967年から自然米のお酒を製造販売していました。農薬不使用のお米の日本酒は一部だけでしたが、18代目蔵元・杜氏の仁井田穏彦(にいだ・やすひこ)さんは「創業から300年の2011年には自社の日本酒のすべてを無農薬のお米で造る」という目標を掲げてきました。そして、ついに迎えた2011年。宣言通りにその目標を達成したのです。

ところが、その年の3月11日、東日本大震災と福島第一原発事故が発生。仁井田本家だけでなく、福島県内の農家や加工業者などは、これまで地道に築き上げてきたものを足元から崩される事態に陥りました。

仁井田本家の日本酒の売上も激減しました。当時、仁井田さんの妻・真樹(まき)さんは妊娠中。放射能の影響を懸念して、東京に避難しました。一方で、仁井田さんは蔵に残って日本酒を造っていました。

「300年を迎えたというときに、なんでこんな仕打ちを受けなければならないんだ」。いろいろな思いがめぐりました。しかし、長期的な視点で考えてみると、「300年も酒造りをやっていたら、きっと過去にはこういう大きな事件もたくさんあったに違いない」と思え、前を向くことができるようになったと言います。

仁井田さんは約20年前、28歳という若さで社長に就任。父は体が弱かったため、早い時期からの代替わりが求められていました。
「自分の代で親父の代よりも販売量が少なくなってしまうのは嫌だ、絶対に成功してやる、と思っていました。あのころは、日本酒が売れないことを社員のせいにしたりしてね。ぴりぴりしていました」。重責と気負い。それが、仁井田さんを追いつめていました。

ところが、原発事故を経て、仁井田さんの思いに変化が生まれてきたのです。「自分の代で販売量が減ったとしても、お米作りとお酒造りを将来にわたって繋いでいけば、きっと次の代かその次の代が盛り返してくれる」。

自分の人生を超えた夢を見る仕事

「繋いでいくことの大切さ」に仁井田さんが気づいたのは、原発事故がきっかけでした。それに加えて、子どもの存在も大きかったと言います。震災の年に次女が生まれた仁井田さん。震災と出産が重なったことで、「次の世代に繋いでいきたい」という思いがより強くなりました。

「自分の代で潰れなければいいというわけではありません。自分の代ではお米がとれず、たとえ大赤字になったとしても、子どもの代になったときにすごく良いお米がとれる田んぼがあればいいなあと。だから自然栽培を続けていきたい。そして、いまやっている日本酒の輸出は、もしかしたら僕の代ではもうからないかもしれない。それでも、いつか輸出が順調になれば、それは子どもたちの財産になります。目標が自分の代で叶わなかったとしても、僕の子どもや孫がきっと達成してくれる。自分の人生を超えた夢を見ることができるんです。自分が死んだ後でも夢がつないでいける仕事ってすごくいいなと思えてきました」(仁井田さん)

妻の真樹さんも一緒に働いているため、8歳の長女と5歳の次女は日常的に酒蔵で過ごす時間が多くなります。「子どもたちには、お酒はおいしいもの、飲むと楽しくなるものという感覚を自然と持ってもらえたら」と仁井田さん。子どもたちはお酒が入ったコップに突っ込んだ指を舐めて、「これは辛口!これは甘口!あってる?」と利き酒の真似をしたりして遊ぶこともあるそうです。お客向けに開くイベントでも、稲刈りを手伝ったり、お客に声をかけられたりしながら、楽しそうにしている様子が見受けられます。

常日頃から酒蔵に仁井田さんの子どもたちが出入りしていることで、社員と子どもたちとの交流も生まれています。仁井田さんは、将来、子どもが社長に就任する際も現在働いている社員たちが一緒に仕事をすることも見越して、家族のように親しんでもらいたいと思っています。仁井田さんは「子どもが苦労せずに楽しく仕事ができるように、自分の代でできることは何でもやっておこう」といつも考えているのです。

酒蔵の楽しい思い出を子どもたちに

仕込水もまた次世代へ繋ぎたい資源。水を守るため、所有する100ヘクタールの山の管理も行っている

「次の代へ繋ぐ」。その思いの繰り返しが、仁井田本家の300年もの歴史を作り上げてきました。「繋いでいくことは、楽しいこと」と笑顔を見せる仁井田さんに、かつてのような気負いはありません。

「先代がやってきたことを繫ぎ、自分の代でブラッシュアップして、次の世代に繋いでいく。それは農業も酒造業も同じ。仁井田本家という酒蔵や田んぼを繋いでいくことは、日本の文化を繋いでいくことでもあります。私たちにはそういう大事な役目があると思うのです」

その1つとして、仁井田さんは昔からのしきたりも繋ごうとしています。
たとえば、「己巳(つちのとみ)の日」にはスタッフ全員で蔵の裏山にある水神様にお参りに行っています。これは、仁井田本家で繋がれてきた風習で、山の神様のもとに赤飯を持って行き、赤飯を供え、赤飯をみんなで食べるという恒例行事です。

一時は、効率を優先するあまり、「そんなことしている場合じゃない」と、お参りをやめていたこともありました。仁井田本家ではお盆になると、昔の社員の墓や、先祖が世話になった人の墓など、計100カ所もの墓参りをしていたことも、仁井田さんが昔のしきたりを嫌がるようになった理由の1つでした。

しかし、「繋ぐことの大切さ」を強く感じた仁井田さんは、そうした風習も復活させました。「震災と原発事故があっても、ありがたいことにうちは田んぼで作付けができますし、お酒も造ることができます。人の手の及ばない領域ってあると思うのです」と仁井田さん。
今では、おおむね60日に1回のペースでやってくる「己巳の日」には、必ずお参りを続けています。そして、このお参りにも子どもたちを何度か連れて行き、お盆の墓参りにも子どもたちを連れて行っています。かつて、自身が嫌でたまらなかったお盆の墓参りも、子どもたちが嫌にならないように簡略化したり、ゲーム形式で墓掃除をさせたりと、工夫しながらしきたりを子どもたちに伝えていこうとしています。

仁井田さんがここまで「楽しさ」を重視しているのは、自身の経験からだと言います。「小さなころ、会社(仁井田本家)に対しては楽しい思い出しかありません。だから、父の跡を継ぐのがまったく嫌ではありませんでした。子どもたちには喜んで跡を継いでほしいのです」

後継者の育成が特に第一次産業分野で課題となっていますが、持続可能な経営は、目先の売上だけでなく、将来にどう繋いでいくかを考えること。お盆直前の営業日には、スタッフ全員で仁井田家の先祖の墓でお参りしています。「公私混同かもしれませんが、先祖があって、今の仁井田があり、仁井田があるから、みんなが生活できる。だから、みんなで先祖を敬うのです」。スタッフ1人1人が過去300年の歴史の重みを噛み締めることもまた、仁井田本家が将来へバトンを渡すモチベーションとなっています。

仁井田本家

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